絶望の隣は希望です

退院後は丸山ワクチンと並行して抗がん剤治療も受け始めていました。その主治医は「いやぁ、抗がん剤がよく効きました」と納得顔です。なにが効いたかはどうであれ、これなら治るかもしれない。やなせさんは一縷の望みを胸に呼び込みました。女子医大に通院しながら、夫人は抗がん剤治療も受けていました。その影響から、退院から5ヶ月ほど経った頃から、猛烈な吐き気、そして髪の毛がごっそり抜け出しました。体力がどんどん落ちていく。担当の医師たちは、「抗がん剤でこんなによくなったじゃないですか、がんばりましょう」「あなたは模範的な患者です」と・・・ぎりぎりまで投与して、危ない状態になれば止めて、体力の回復を待つ、そんないたちごっこのような治療が繰り返されました。しかし、ガンは消えたわけではありませんでした。肝臓から腰の骨へ転移、夫人はガンのことは知っていましたが、転移のことは知りませんでした。当初、入院した時から「私も肝臓に転移したらおしまいね」そう夫人がそうしゃべっていたからです。 転移を告げると気落ちすると思い隠していたのです。そして、やなせさんの知らないあいだに、夫人は丸山ワクチンの注射を止めてしまっていたのです。転移を知らない夫人は、一日置きに打たなければならない丸山ワクチンが重荷に感じるようになっていたのです。いちどやめてしまうと、もう続けられなくなってしまったのです。やなせさんは病状を正確に告げなかったことを後悔しました。


季節がめぐり、1992年の夏が過ぎるあたりから、夫人の病状は次第に悪化し、脚や腰あたりに猛烈な痛みが走るようになりました。ガンが転移し、進行しているとは思いもしない夫人は、整体やハリに通い、不思議なことに通うと痛みがなくなるようでしたが、やはりそれも一時的なことでした。その後、1993年11月になって、放射線治療で貧血がひどくなり輸血をしないと危険という状態になりました。緊急入院、直ちに輸血開始となりました。11月15日ワラにもすがりつきたくなり。頼み込んで、もう一度丸山ワクチンを開始しました。そして顔色がよくなり、少し元気になりましたが、11月18日、医師から絶望との最後通告を受けます。11月22日、朝から意識不明になる。前夜はとても明るく元気になり、その時ちょうどテレビにやなせたかしさんが出演しており、そのテレビを見て大喜びしていたらしい。心拍停止は午後4時。享年75歳。本人の意思を尊重し、身内だけで密葬し、3ヶ月間は死を誰にも秘密にしたそうです。余命3ヶ月と宣告され、丸山ワクチンのおかげでほぼ治癒したのにもかかわらず、惑わされて丸山ワクチンを中断。抗がん剤の副作用もあったという。それでも、手術から5年間、生命を保ち続けた。やなせさんはそのとき74歳でした。2004年6月の 「この道」という東京新聞夕刊に載せられていた記事、そして、やなせさんの自伝「絶望の隣は希望です!」を参考にしました。


やなせさんの思いと夫人の思いが違っているのを感じます。ガンの場合はどれが正しいかは後になっても判断はつきません。本人が納得した治療を受け、余命3ヶ月の診断で5年の充実した人生を送られた。私も後悔のない選択を続けたいものです。