最後のサービス

いつも面白い話を聞かせてくれるおじいさんがいた。バッタリと姿を見せない。そこに、長男の嫁から往診の電話だ。いつの間にか寝たきりになっていた。脳梗塞をおこしたらしい。言葉も話せない状態になっている。食事になっても、口をつぐんだまま、全く食べてくれないので、お嫁さんも困り果てている。緊急入院の手続きをとる。入院して、点滴をして、お風呂に入って、おじいさんの顔に笑顔が戻ってきた。しかし、食事の用意が出来ても、おじいさんは決して口を開けようとしなかった。「先生、もう何もわかっている。何もわかっているから、何も食べる必要はないです。」 おじいさんは、唯一自由になる左手を駆使して、点滴も鼻腔栄養チューブも引き抜いてしまった。島のお年寄りたちがよく言う言葉に、「親の長生きは子の不幸」というのがあり。長生きしても体が不自由では、周囲に迷惑をかけるばかり、そう思っている人が多い。それでも、根気強く、話しかけ続けると、そのうちに、おじいさんが回診を待っていてくれるようになった。「まいった。まいった。先生にはまいったなあ」そう言いながら一口だけご飯を食べてくれるようになった。だが、それだけだった。「先生、もうい。我が家に帰してください。何もかもわかっていますから」入院してから約1ヶ月、これ以上、病院に引き留めておくべきではない。退院して家に帰った日に、息子さんがビールを飲んでいると、「自分だけ飲まんで、おれにも飲ませろ」と言って、ビールを飲んだらしい。しかし、軽く一口飲んだだけだった。毎日、往診を続けた。おじいさんの表情は穏やかそのもので、苦痛の影はまったく見られなかった。もはや私にできることは何もなかった。それでも点滴だけはせさてくれたのは、私との間の共有する思い出を大事にしてくれての最後のサービスだったのかもしれない。平成13年3月2日、おじいさんは86歳でこの世を去った。「Dr.コトーのモデルDr.瀬戸上の離島診療所日記」にある、個人的に注目させられた部分です。


多くのエピソードが書かれてあります。そのなかには、獣医の仕事、牛の子宮脱を整復したこともあると記されている。25年の診療活動によって、人口約4000人の孤島にある手打診療所は住民の信頼を勝ち得てきた。でも、ガンの場合はどうでしょう。設備の整った本土の大病院へと考えるのが一般的でしょう。外科医の瀬戸上先生の前の病院での得意分野はなんと肺ガンの手術。25年の積み重ねで徐々に設備を整え、いつでも開腹手術や開胸手術ができる体制が出来上がっていた。今では島民のほとんどが島の病院でガンの手術を普通に受けているとのこと。「ここでだめだったら、仕方がない」と思わせるようになっている。「すべて先生にお任せします」「よし、任せておきなさい」インフォームド・コンセントとは別の世界、このようなパターンは一種の子供を思う親の気持ちのようなもの。これを医療現場に当てはめると、大部分はそれでうまくいく、しかし、医療の専門家である医師が素人の患者さんに詳しい説明をしないままに、患者の権利をおさえこんで医療を押し付けているということにもなれかねない危険性をもっている。それを乗り越えるだけの実績を残しているということになります。もし、私が肺に転移して手術を受けたくなったら、大病院ではなく、この離島の診療所で手術を受けたいような気分になりました。経過がよくなくとも、豊かな自然の中で、朽ちていくという感覚で死を受け入れいれることが出来るかもしれません。


明後日、6月10日 郭林気功の講習会に出かけてきます。ちょっと間隔が開くかもしれません。

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