葬儀に関するおぼえがき

自宅に仏壇がない、日頃から仏壇に手を合わせる習慣もない。困ったときにするのは神頼みだけ。
だから、自分の葬式の時には読経は不要、戒名もいらない、お墓も作る必要はない。家族葬よりももっとシンプルに。ガンの宣告を受けて始めた当初のブログには、こんなふうに書いていました。その後、ガンの告知から1年ほどが過ぎたときに、宗教にすがりたい気持ちが沸いてきました。京都までたびたび出かけていったりして、神社仏閣には心より手を合わせています。その後、般若心経を毎日のように唱えたりしているので、今ではそらんじられるようになりました。


でも、やはり私の葬式には、お坊さまを呼ばないでほしいと残しておこうと思っています。死後の世界は無の世界。だれも行ったことがない。どんなところかだれも分かっていない。日頃の信心がない人が、死んだ後にお金を積めば、お釈迦さまの弟子になれるというのは都合がよすぎます。おこころざしは名目、戒名でさえも文字の数が増えれば金額もはねあがるのが現実。葬儀に関しても、意味不明の読経(インドから伝えられたことばをそのままに)をこれまでどれほど聞いたことか、一度もありがたみを感じたことがありません。現在の人間にも解る日本のことばで世の中の仕組み、無常の世界を説明してもらいたいものです。宗教は亡くなった故人よりも悲しみにある人間の魂に訴えかけてほしい。なぜ旧態依然のしきたりが続けられているかといえば、それは、葬式を仕切ることで寺院が十分に食べていける仕組みが存在するからに他なりません。葬式仏教とそしられようがお構いなし。さらに、ある大手の葬儀業者は宗教法人を買い取り、各宗派別の僧侶社員を抱え込んでいるとのこと(牛込覚心さんの著書から)。この現在の仏教のシステムを我々の子孫に残すことは容認できません。私はすでにお釈迦さまの弟子。経典を唱える私はお釈迦さまの弟子として安楽なあの世が待っているのです。あらためて、仏さまの弟子になる儀式は必要ありません。すでに創○学会では、実際に僧侶ぬきでの葬式、友人葬という形で執り行われているとのこと。


さらに、日本には仏教以外に神社もあります。残された家族には、神社と同じような距離感で仏教に接していってもらいたいと願います。葬儀の場ではなく、寺院に出かけていって手を合わせる。それで納得できなければ寄進をすればよいと残しておきたい。こんな細部まで自分の死の段取りを考えても、そのときになって遺族がどう行動するかは見届けることが出来ないのは残念。ところで、先日来の出血は収まり、鼻の通りなど状況は若干改善されました。