大胆な結論を発表する

丸山ワクチン」 73ページより、要旨―内容のあらまし。前回の続き。

「では丸山先生、あなたは学者である自分の立場しか考えていないことになりますね。それを利己主義というのです」 この言葉には完全に参った。私はいつでも、患者のために、と思って仕事をしてきたつもり、それを否定されては、医学者の私の立場はどこにもない。

河合さんとの約束をはたして、翌1966年7月、日本皮膚科学会雑誌に、ガンのワクチン療法に関する最初の論文を発表した。あとになって、私は何度、河合さんに感謝したかしれない。というのは、その後、フランスのマテ教授もガンのBCG療法について発表されたが、河合さんのおかげで、私の論文はガンの免疫療法に関する最初のものとなりえたからである。

私が日本皮膚科学会雑誌で正式に発表した論文のタイトルは、「結核菌体抽出物質および腫瘤組織抽出物質による悪性腫瘍の治療について」というものであった。これを読んでも、誰も本当にしなかった。私の教室ですら最初のころは本当にしてくれなかった。論文を書き上げたところでコピーをとり、私の教室のある助教授を呼んだ。「こういうものを書いたので、読んでみてくれないかね」原稿のコピーを手渡した。

読んだ助教授は、驚いたらしい。内容がどうのこうのというまえに、まず私の身の上を心配してくれたようだ。「ことがあまりに重大で、なんとも申し上げようがありません」 私は発表することに決めたものの、まわりの意見にも耳をかさず独断で決めたということが、えらく精神的な負担となってきた。本当に胸のあたりに痛みを感じるようになった。心筋梗塞の発作である。私の病室には「面会謝絶」の札がかけられた。それでも、校正が終わりゲラ刷りが届けられ、それを私の研究に関係のある微生物の教授と、病理学の教授と、生化学の教授に読んでもらった。3教授ともていねいに読んでくれた。もう丸山は危ないそうだ。彼の最後の論文になるかもしれん。気の毒だから読んでやるか、ということだったのかもしれない。「このワクチンがガンにどれだけ効くのか臨床家でない自分たちにはわからない。しかし、あなたの書かれた文章の筋に矛盾はない」 私は安心して、この論文の発表に踏み切ったのである。 次回は「丸山ワクチン」の78ページから。


ガンの告知からほぼ2年と10ヶ月、日数でいえば1000日ぐらい経つ。500回は丸山ワクチンを打っている計算になる。そろそろ目に見える効果が生まれてほしい。これは欲張りすぎだろうか。こんなに健康的な食生活を送っているのに、昨日と今日、下血がみられた。血色からして痔のようだ。なぜだろう。相変わらす耳の圧迫感がある。マイナーな気持ちなる。考え方を変えたい。きっと治る。たぶん治る。何とかなるだろう。