葬式無用・戒名不要

故郷には年老いた母親がまだ元気に暮らしている。先日に帰郷した際に話題を振ってみた。自分の葬式の際はどんな形式が希望なのかということ。真剣に聞くのではなく、何気ない風を装って聞いてみた。しばらくすると、隣にだまって座っていた弟が突然、激怒した・・・。今は元気なのにそんな話題を持ち出すのは不謹慎と感じたのだろうか? 死ぬことを望んでいるように感じたのだろうか? 


以前に同じような文面を記事にしたところ、葬儀のことを考えると死期を早めることになりますよ、とのコメントをいただいたことも思い出す。なぜ、死後の段取りのことを考えると、死期を早めることになるのか理解できない。世の中には雑多な考え方がある。死について考えること事態がタブーだと感じる人もいるということだとすこし納得した。


亡くなる方の80%は臨終を病院で迎えるようになったという。病室から霊安室へストレッチャーで運んでくれる白衣の人が実は病院関係者ではなくて、委託された葬儀社の人だったとうケースもあるという。身内を亡くして気が動転している状況では、葬式の段取りや費用について考える余裕はないと思われる。霊安室で言われるままに従うようになるのも当然のこと。一度、喪主を体験したことがあり、そのときの精神状態から、それはまちがいないと感じている。松と竹と梅。祭壇のランクが示された際にも、梅は選ばなかった。でも松も選ばなかった。「このレベルであれば、一般的に恥ずかしいということもありません」「こちらなら、故人もお喜びになりますわ」という言葉になっとくした。線香の煙とともに魂は天国に行くのです。葬儀業者のことば。エスカレータに載せられた気分だった。もう一度、喪主になるときは、梅の下はないのですか、とはっきり聞いておきたい。さらに、そんな駆け引きをするよりも、葬儀自体を断わりたい。


葬儀と告別式は別のものだという。告別式というのは、もともと無宗教葬のことをさしていた。日本で最初に告別式が執り行われたのは、中江兆民が亡くなったときだという。高知出身の中江は主権在民を唱えて国会議員になった。無神論者だった。亡くなる前に、家族に対して「葬式は不要、すぐに火葬場に送り、荼毘にふすこと」と遺言した。この遺言に困った家族は、同郷の板垣退助らに相談を持ちかけたところ、板垣らによって、宗教を伴わない葬送が企画された。その際に初めて、告別式ということばが用いられた。別れる式典である。


あの世とか天国とかが本当にあるのであれば、そこがすばらしい世界であるならば、死ぬことはハッピーなことである。特に宗教を信じている人にとって葬儀は悲しむべき場所ではないはず。ただし一方通行だから帰ってくることはない。それでも、いつかはだれもが死ぬのだからあの世で再会することができる。わたしのような来世を信じていない者こそが、悲しむべきだと感じる。でも、わたしの旅立ちの際はたのしく、すみやかに、そして簡素に進行することを望みたい。勿論、まだまだ先のことですが・・・