イレッサに関する裁判記事

肺がん治療薬のイレッサの副作用で死亡した患者の遺族らが国と販売元のアストラゼネカ社を提訴した。損害賠償請求訴訟。国と製薬会社は和解勧告を断わった。承認されたことが妥当だったのか、情報提供が適切であったかどうか、副作用が多発した後の対策が適切だったかどうかが焦点になる。裁判所は添付文書や説明文書に副作用に関する十分な記載がなされていたとはいえないと指摘した。現在のイレッサの添付文書は冒頭に「警告」で致死的な間質性肺炎の副作用を赤字で目立つように囲ってある。だが、販売開始直後は「致死的」の記述はなかったとある。


記載されていれば問題は生じなかったのだろうか。副作用で亡くなることもあると書かれてあれば問題はなかったのだろうか、その副作用で亡くなられたから裁判が起こされたのだろうか。副作用があるのは必定の抗がん剤。タバコのパッケージの文面のようなものが裁判の焦点なのだろうか。


原告の中にひとりだけ患者本人がいる。この人にとっては他の原告とは違って死ぬような目にあわされたから裁判を起こしたということになる。抗がん剤では多くの深刻な副作用がつきもの。髪の毛が抜けおち、免疫力が低下する。感染症にかかって死ぬような目に会う患者も少なくない。今まで提訴する患者がいなかった、いたとしても新聞記事にならなかったのが不思議なぐらいだ。


賠償金額を請求するための訴訟。裁判に勝利したとしても亡くなった患者は生きかえることはない。その分が賠償金に換算されて支払われることになる。亡くなられた患者さん遺族の無念の心情を思いやる一方で、賛同できない気持ちもある。死ぬ目にあわされたひとは、亡くなられた方より賠償額は低くなるのだろう。しかも、一方は遺族が受取り、一方は患者本人が受取ることになる。


生きているうちは生命体であるのに、死んだとたんに物として取り扱われるようななる気がするのだ。遺体が価値のある物のように思えてくる。これからは、死んだ後の自分の遺体に発生するかもしれない価値にたいしても、どう配分するかも遺言に残しておかなくてはならないのだろうか? こんなことを書けるのも、わたしが現役のガン患者だから。健常な状態にあるときにこんなことを書けば袋叩きに合うであろう。書くほどにむなしさが増してくる。