ともらいの心

残されたものにとって、死者に対して出来ることといえばと死者をともらうことだけです。手を合わせることだけです。お盆行事、灯篭流し、合同慰霊式 3.11関連の番組を見て思わずいっしょに手を合わせました。私の葬式の時は宗教的儀式抜きで願っていますが、それは宗教を否定しているわけではありません。形骸化した現在の宗教、とりわけ日本の仏教への気持ちを最後の時ぐらいは主張したいと願っているだけです。残された家族がどうのように亡くなった方への気持ちを表すかについて、金額だけに注目するのは罰当たりでしょうか? 


私の父親がなくなったときに示された戒名代が60万、80万、120万のランクの中から選べといわれ、真ん中を選んだと母親から聞かされました。一割引きにしてくれて72万円をお寺さんに支払ったそうです。喪主のわたしが負担したお金ではなく、父親がそのために残したか、支払う余裕があったわけです。今度は送られる立場に立つ側として、そんなお金を支払う余裕があるのであれば、喜捨としても、もっと生きたお金の使い方をして欲しいと思っているだけです。東日本大地震の番組をみてなおさらその感が強くなります。わたしが喪主であっただけに後悔の念も強く残ります。


東日本大震災の法事では。いっさい金額に関する情報がニュースに流れることはありません。心がこもった正しい葬儀、法事のあり方が今回の東北の悲しい出来事で全国へ示されることを願っています。ところで話はかわりますが、上咽頭ガンなのに痛むのは眼の奥で、神経がやれらて片方の視力も極端に低下しました。その前に仕事を止めたのは我ながら的確な判断でした。